永劫回帰と左手の矛盾
誰も見てないものが見たいって思う私は異常です
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笑顔
地震が起こった当初から言っているのですが、オレは人災以上に怖いものがありません。
それに比べれば地震だって、放射能だって怖くありません。
何故なら、それにはオレの努力が通じないからです。
大変、不謹慎なことを言わせていただきますが、地震も被爆も、努力が効かないからこそ、諦めがつくのです。
なるようにしかならない。
見ず知らずの人が死んでも、友人が死んだとしても、自分が死んでも後悔のしようがないからです。
後悔するとしたら、何故「西日本に避難してください」と強く言わなかったのだろうということくらいでしょうか。
でも、自分たちの生活を壊してまで逃げろとも言えません。
自分も、仕事があるから今は東京にいるし。仕事があるうちは離れる気もないという状況です。
ただ、人災は別です。
努力できることは、あります。
それは、まず、自分自身が理性的であろうとすること、です。
そして、第二に、自分たちの置かれている状況がどこまで危険で、どこまで危険ではないかという判断をすることです。
それを、周囲に伝えていくことで、混沌とした情報を整理できます。
情報が整理できれば、不安も減ります。
不安が減るということはストレスが減るということです。
ストレスが最も人を壊します。
毎日おこる地震。報道され続けるマスコミの扇情と混沌と行きかう情報。そして、食べ物がないという飢餓感。この先、どうなるのかという不安。家族、恋人、友人への心配。
これら全てが、私たちにとってのストレスです。
ストレスは、やがて私たちの理性を壊し、感情を起伏させます。
感情が先に立てば、思考の整合性がなくなり、利己という化け物が育っていきます。
そして、感情は伝染します。
もしも、誰か身近な人が、自分の隣で怒りだせば、自分も怒りたくなります。
不安だと口に出してしまえば、自分も不安になります。
誰かが泣けば、自分も悲しくなります。
誰かがパニックを起こせば、周りもパニックとなります。
そうなってしまったら、もう歯止めは利かなくなってしまうと考えてください。
まだ、パニックを起こすような状況でもありませんし、ストレスで思考がおかしくなるレベルでもありません。
ただ、兆しは感じています。
オレは、友人が誰かに傷つけられる姿も、友人が誰かを傷つける姿も見たくありません。
友人同士の殺し合いを見るくらいなら死んだほうがマシです。
ただ搾取し、搾取される。
そんな世界は人間の世界じゃない。
でも、そうならない為にできることがあります。
それは、笑うことです。
怒ってる人がいれば、笑いながら、何故怒っているのかをたずねます。
不安だと言っている人がいれば、近くで笑っていようと思います。
泣いてる人がいれば、笑顔で慰めます。
感情が伝染すると言いましたが、笑顔だって伝染するのです。
オレには、自身が冷静であることと、笑顔を作ることと、言葉を投げかけることと、言葉を聞くことしかできません。
でも、それが、人間の理性を保つための大きな要因になりえると思うのです。
ですので、みんなも理性のあるうちに笑顔を自分で作れるようになってください。
難しいですが、思考の方向性を自分でコントロールしてください。
できないのであれば、笑顔の人の近くにいったり、外食をしたり、お酒を飲んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり、歌ったり、本を読んだりして、自分が笑顔になれる場所を探してください。
要は、ストレスを発散するということです。
笑顔を作れるようになったら、隣の人に話しかけてください。
一緒に笑顔を作れるように会話をしてみてください。
きっと、相手も笑いかけてくれるはずです。
他人の情報や、感情に流されてしまうことこそが、パニックの大きな原因です。
私たちは、自分で考え、自分で笑うことができます。
それが最も、パニックを起こさない、自分や周りを基地害にしない為の有効な手段です。
オレにできることは、理性的であることと、状況を判断すること。そして、笑顔を作ることです。
そして、それはオレの友人なら絶対にできることだと思っています。
だって、オレに笑顔を作れるようにしてくれたのは、他でもなく、皆なんだからね!
世界はどこまでも混沌としていて、どこまでも糞ったれだ。
でも、オレの周りには笑顔を作れる天才たちが集まってるから大丈夫!
皆の笑顔で、もっと、もうっと笑顔を増やしていこうよ!
やってらんねえ
ブログを更新しようと頑張って記事を書くのだけれど、更新をクリックする度にネット不良(?)で書いた記事がおじゃんになるという悲しいお話が3回連続続いたので、これからはテキストを保存してから更新しようと思いました。
「何が言いたいの?」
「ただの愚痴です」
オーディエンス
観客は、主張してはならない。
観客は、応援してはならない。
観客は、他の客に流されてはならない。
観客は、見聞きすることだけを感じなくてはならない。
観客は、心で触れ得たものを外にだすべきである。
その瞬間、観客と奏者の垣根は消えるだろう。
それは決して、観客個人の主張でも、偽善的且つ、打算的な応援でも、大衆に流された結果でもありえない。
ただ、純粋に奏者が表現しているものを感じることができた純粋な喜びであり、奏者にとっての最高の喜びでもあるだろう。
一瞬の繋がり、そこに僕らは夢を見ているのだから。
初夢
今年の初夢をやっと見ることができた。
美味しい物をたくさん食べて女の子とイチャイチャするという夢を見て、これが正夢だったら最高じゃないかと喜んでいる自分という夢だ。
滑稽である。
心の底から滑稽であると言える。
笑い以上に寂しさがこみ上げてきた。
しかし、初夢とは一日から三日の間に見たの夢のことを言うらしいので、時効であるらしい。
少し安心できた。
まあ、虚構に溺れ喜んでいる様など、私らしいかと言えばまさに私らしいと思うので、これが正夢であっても良いのかとも思わなくもない。
「どっちでも良いよそんなことは」
「そうだよね。自分の人生そのものが虚構じゃないかとか未だに思ってるもんね」
「人生がフィクションとか超面白いじゃないか!」
「超とか使うな。早く病院に行け」
生きていく為には精神安定剤が必要です。
自分が駄目で屑でカスで非常識で無能で劣等で劣悪で臆病で卑怯な存在であり、私が人に迷惑かけて生きてることなんて解りきっていることなのだけれど、他者にそれらを理解してもらおうとする行為は無駄なことなのかもしれない。
そう考える私は、それらを前提に話をするのだが、やはり不具合が生じている。
では、前提を話せばいいのかと言われると、他者からは開き直るなと一蹴されて終わる。
当たり前のことである。
しかし、当たり前のことができないからこそ、そういった人間として私が構成されているのだ。
開き直る以外の選択肢が果たして自分にあるのかと問いたい。
不幸面して、私は不幸ですというアピールをしながら生き続ければいいのだろうか。
それとも、私は一切の主張をせずに、ただ他者からの要求を鵜呑みに頭を下げ続ける人間になればいいのだろうか。
他者の視線に怯えながら日々を過ごさなくてはならないのか。
糞ったれだ。
まさに糞ったれだ。
私がしてきたことは大半が害悪であろう。
他者に喜ばれることなど毛ほどもない人生だったであろう。
しかし、自分を評価していいのは自分だけだ。
私の人生に他者からの評価など糞くらえである。
私が害悪なら私から離れれば良い。
私といても利益がとれないのなら利益のとれる場所に行けば良い。
たった、それだけのことではないか!
それを選択しないのなら、傍にきて私と笑い合えば良いじゃないか。
近くは抵抗があるというのなら、少し距離をとって眺めているといい。
私が下手をうって足掻いている滑稽な様を嘲笑できるだろう。
私に相手に限らず、人間関係などその程度のものじゃないだろうか。
他者に自己規律を求めるという時点で、その距離感が間違っていると私は考えるのである。
「人とは笑い合いたいよね」
「ん?お前が近づきたい場合はどうなるんだ?」
「うん?一歩前に出るだけだよ」
「それ以上の距離があったらどうすんだよ」
「あとは相手次第で、近づいてこなければ諦めるよね」
「マジでお前糞野朗だわ」
「えへへ」
努力が空回れば未来は崩れる
例えば自分が社会的に成功していると想像したとしても、現実からあまりにもかけ離れた妄想でしかないという事実を僕に突きつけるという行為でしかない。
例えば自分に恋人ができるという想像をしたとしても、所詮「別れる」という前振りでしかない。
例えば自分が友達と一緒に笑っているという想像をしたとしても、実感はあっても、それは過去の産物でしかない。
「何で未来は、こんなにも曖昧なのだろう」
墓堀作業
僕は、普通になりたいといつも思っているのだけれど、気づいてみると逆の方向にいつも立っています。
人並みに幸せになりたいと思ってるし、面白いことがしたいと思ってるし、みんなに支えられて生きているということも実感できているのだけれど、何故か僕は違う場所を走ってる。
僕の頭が弱いだけなのか、それとも僕がそういう星の下に生まれたってだけなのか、どっちが理由になっているのかは定かじゃないけど。どちらも正解なのかもしれないけど。
まずは、こんなところから抜け出してしまいたい。
疲れたと思う時に、ほっとできる場所を見つけたい。
それが今の僕の希望です。
「そんな場所ねえよ」
「そうですね」
「もう、いい加減に諦めちまえよ」
「そうですね」
「お前、頷いてる癖に、その気ないだろ」
「うん」
疲労は性格を悪くします
私が記事にしたことについて、私と大してコミュニケーションをとっていない人間が横から文句を言ってくることが腹立たしい。
私と現実で接しているということだけで、私を知っていると思いこんでいる人間が腹立たしい。
自分自身のことすら言語化できない人間が私は腹立たしい。
自分自身を抽象化して悦に浸っている人間が私は腹立たしい。
そういった人間が私を見下そうとするということが最も腹立たしい。
「思考もせずに生きてきた家畜にしか思えないよな」
「家畜に罵られるのはたまったものじゃないよな」
「今日のお前は口が悪いな」
「お前もな」
「とりあえず、あれだ」
「なんだよ」
「ネタとガチの両方を受け取れない奴とは喋りたくないな」
「疲れるだけだもんな」
沈黙は甘えだ
「なあ、何で不機嫌そうにしてんの?」
「………」
「話してもらわなくちゃ分からないだろ」
「………」
「あー、オレは、お前が意味不明に不機嫌なのが腹立たしい」
「い、いや、だって(以下略」
もっと、ましな甘えかたしやがれ。
底辺というのは、ある意味で自由であるとも考えられる。
きっと、これからのオレも今まで通り、運命や他人に振り回されるだけの人生なのだろうけれども、生きていれば良いかと考えれば、大して苦しいことなんてないのではないかと思えてくる。
しかし、自分の努力ができない奴がどうやって他人と笑い合えるのかが、どうも不鮮明である。
私には具体的な物がなにもない。
私には背骨となる物がなにもない。
「努力するしかねえよな」
「何を?」
「何かやりたいことないのか?」
「うーん、お金が欲しい」
「なら働けよ」
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