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正当性も、整合性も必要ない。


イライラすることがあって、そのイライラを本人にぶつけてやりたい訳だが、そうすると、自然と「死ね」だとか、それ以上に汚い言葉をあっさり言いたくなってしまう。
それをどうにか堪えて、堪えて、堪えて、言葉に出そうとすると、それは自分のストレスを解消するに価しない、温和な言葉になってしまう。

それはそうなんだが、私としては、もっと正直に相手を罵倒して、自分がすっきりしたいのだ。
しかし、いかんせん人間関係だとか、今後の対面時だとかに、また別のストレスが生まれるのが安易に想像できてしまう。

で、結局、自分はストレス解消できない訳で、なんて窮屈な思いをしなくちゃならないんだと、世の中に叫びだしたい衝動にかられるが、実際にその感情を表に出せるほどのアクティブさは持ち合わせていない。

一体全体、私のストレスはどこで発散しなければいけないのかと夢想するが、もちろん根本的な解決は、本人にぶちまけること以外にない。
ない。
他にない。
だから言いたい。
言いたくて仕方がない。

なんて、私の脳みそは幼稚なのかとも思うが、自覚してたとしても、敵意には敵意にというのが、私にとってのスタンダードなのである。
言い訳さえしようと思わない。

距離が遠い人なら、どうでもいいと割り切れる。
距離が近い人なら、敵意でもって返すのだ。

それなのに、言えないってのが、何とも苦痛すぎるではないか。
実際に言ってみても、もしかしたら、形の良い喧嘩になって、上手く着地できるかもしれない。
でも、相手からしたら、絶対に根に持つ訳で、根に持たれちゃう訳で。

ああ、面倒臭い。
他人に対する優しさの足りない、そんな自分が元凶であることは分かっているが、なかなかどうして開き直れないものかと。

他人を傷つけることを当たり前にしていた時代の後悔なのか、いや、時代とか関係なく傷つけてるのだけどね。
まあ、そういう後悔が私の枷になっているのかな。

しかし、近ければ近い人ほど、傷つけたくなる。
ある種の病気だろうな。

優しくしたいと思いながら、傷つけたいとも願ってしまう、そんな葛藤である。


「加減して罵倒すれば良いんじゃね?」

「そんな器用なことできるか!」

「もう、破綻してるよな、お前の人格」
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他人の死との距離感


昔は、好きな人が死んだら悲しいと思えた。
不思議なことに、今のオレには、悲しいという感情はなくて、寂しいという感情になる。
それは、本当に身近な人が死んだ訳じゃないから?
親戚でも?
家族でも?
友人でも?

酷く感情が矛盾してるように感じる。

結局は、自分が相手のために何もできなかったという後悔が、悲しさという感情を生んでいるようにも思うのです。

後悔できるってのは、それだけその人の近くにいたと思えるから?
自分なら、もっとその人のためにできることがあったと思えるから?

誰の近くにもいないオレは、人の死を悲しめないってことなのかな?

だって、自分なんかが他人にできることなんて、一つもないんだもの。
悲しいふりさえできないよ。

「演技で良いんじゃねえの?」

「そんなナルチシズムは寒気がするよ」

「馬鹿になれってことさ」

情報の共有を上手くできないのは、恐ろしくストレスである。


日常的に行われる会話の中で、特に悪意もなく、ただ思ったことを伝えようとしているだけなのに、その認識に若干の差違があると、それだけで、まったく別の情報になってしまう。

全てのメディアや、エンターテイメントでも同じことが言えるのだろうが、まったくもって不合理な話である。

人と人とが関わること自体が、一種の混沌を形成している原因のように感じてしまう。
この考え方自体も、既に混沌としているのだが、心象や、受け手としての感性をどうこうなんて、できる訳がない。

コミュニケーションを重ねることで、差違を埋めることはできると言えばできるが、人は変化する物であるのだから、そこに普遍性なんてない。

結局は、変化を含めて相手を肯定することが、必要で、かつ自分を肯定することも必要な訳だ。
それ自体も、夢物語に感じるが、完璧よりも、適当にってのが正攻法なんだろう。

アバウトに、よりアバウトに他者と接する。
まったくもって、不合理である。

「ただの会話にもリスクがあるって話か」

「だね。リターンが悪意ってのもありえる訳で」

「じゃあ、閉鎖的になるしかねえよな」

「うん、八方塞ってやつだ」

見えない温もり



人を好きになっても、それは僕の現実を変えることのない心象でしかない。
それでも、僕の脳内では大変な影響があるらしく、眩暈がしたり、眠れなくなったり、自己の統一性が計れなくなったりと、嫌なことだらけの事柄です。

ああ嫌だ。

ただ、好きな人と、抱き合って、匂いを嗅いで、温もりを感じたいと思うだけなのに、それが過ぎた願いというのなら、人生のなんと苦しいことか。

ああ、嫌だ。

「そろそろ、三十路だよな、この童貞やろうが」

「あと十年たったらインポテンツだと思えば笑い話になるよな!」

「ことごとく笑えねえよ」

続きの続きの終わり



一人でいることは、とても自由なことに思うのです。
ただ、自分の思うように過ごす日々は、あまりにも尊く、束縛なく、まるで何もない草原をただ闊歩していくような心地です。

私は、何にも縛られず、何にも関わることのない、そんな生活を送っているのだと。
しかし、それは、とても孤独であるとも思うのです。

空を見上げても、地平を見つめても、地面を私の足で噛み締めても、それを共有できるものはありません。
ただ、私個人が、綺麗だと思っても、楽しいと感じても、草木の枯れを悲しんでも、それは私自身にしか伝わってこない、そんな現象でしかないのです。

自由という言葉の、なんと虚しいことか。

私は、いつも自由です。
他人の言葉に流され、傷つき、立ち上がり、歩んでも、それは一個の私でしかないのです。
前を向き、後ろを向いても、見えるものは自分という存在のちっぽけさだけに思えてしまうのです。
世界はこんなにも、広大で、鮮明で、残酷で、意味のないものなのでしょうか。

歩みはする。
それは、私に許された唯一の選択なのでしょう。

自由であるが故に、私は私でしかなく。
世界という深淵を探すことが、諸感情を認識する唯一の手段なのでしょう。

気づいてみれば、私の周りに人がいた、そういう夢を見ます。
しかし、それは夢でしかないのです。

目が覚めた、私の見るものは、私が自由であり、私が一人であるという観測の結果でしかないのですから。

「そろそろ、自分の手でお開きにしたらどうなんだ?」

「うん、そうしたいのはやまやまなんだが、それだけはしないって約束だからな」

「じゃあ、自由じゃないじゃん」

「オレは、オレでしかないんだから、結局は同じことってことだよ」

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