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生きていく為には精神安定剤が必要です。


自分が駄目で屑でカスで非常識で無能で劣等で劣悪で臆病で卑怯な存在であり、私が人に迷惑かけて生きてることなんて解りきっていることなのだけれど、他者にそれらを理解してもらおうとする行為は無駄なことなのかもしれない。

そう考える私は、それらを前提に話をするのだが、やはり不具合が生じている。
では、前提を話せばいいのかと言われると、他者からは開き直るなと一蹴されて終わる。

当たり前のことである。
しかし、当たり前のことができないからこそ、そういった人間として私が構成されているのだ。

開き直る以外の選択肢が果たして自分にあるのかと問いたい。

不幸面して、私は不幸ですというアピールをしながら生き続ければいいのだろうか。
それとも、私は一切の主張をせずに、ただ他者からの要求を鵜呑みに頭を下げ続ける人間になればいいのだろうか。
他者の視線に怯えながら日々を過ごさなくてはならないのか。

糞ったれだ。
まさに糞ったれだ。

私がしてきたことは大半が害悪であろう。
他者に喜ばれることなど毛ほどもない人生だったであろう。

しかし、自分を評価していいのは自分だけだ。
私の人生に他者からの評価など糞くらえである。

私が害悪なら私から離れれば良い。
私といても利益がとれないのなら利益のとれる場所に行けば良い。
たった、それだけのことではないか!

それを選択しないのなら、傍にきて私と笑い合えば良いじゃないか。
近くは抵抗があるというのなら、少し距離をとって眺めているといい。
私が下手をうって足掻いている滑稽な様を嘲笑できるだろう。

私に相手に限らず、人間関係などその程度のものじゃないだろうか。
他者に自己規律を求めるという時点で、その距離感が間違っていると私は考えるのである。


「人とは笑い合いたいよね」

「ん?お前が近づきたい場合はどうなるんだ?」

「うん?一歩前に出るだけだよ」

「それ以上の距離があったらどうすんだよ」

「あとは相手次第で、近づいてこなければ諦めるよね」

「マジでお前糞野朗だわ」

「えへへ」

努力が空回れば未来は崩れる



例えば自分が社会的に成功していると想像したとしても、現実からあまりにもかけ離れた妄想でしかないという事実を僕に突きつけるという行為でしかない。

例えば自分に恋人ができるという想像をしたとしても、所詮「別れる」という前振りでしかない。

例えば自分が友達と一緒に笑っているという想像をしたとしても、実感はあっても、それは過去の産物でしかない。


「何で未来は、こんなにも曖昧なのだろう」

墓堀作業



僕は、普通になりたいといつも思っているのだけれど、気づいてみると逆の方向にいつも立っています。

人並みに幸せになりたいと思ってるし、面白いことがしたいと思ってるし、みんなに支えられて生きているということも実感できているのだけれど、何故か僕は違う場所を走ってる。

僕の頭が弱いだけなのか、それとも僕がそういう星の下に生まれたってだけなのか、どっちが理由になっているのかは定かじゃないけど。どちらも正解なのかもしれないけど。

まずは、こんなところから抜け出してしまいたい。

疲れたと思う時に、ほっとできる場所を見つけたい。

それが今の僕の希望です。


「そんな場所ねえよ」

「そうですね」

「もう、いい加減に諦めちまえよ」

「そうですね」

「お前、頷いてる癖に、その気ないだろ」

「うん」

疲労は性格を悪くします



私が記事にしたことについて、私と大してコミュニケーションをとっていない人間が横から文句を言ってくることが腹立たしい。

私と現実で接しているということだけで、私を知っていると思いこんでいる人間が腹立たしい。

自分自身のことすら言語化できない人間が私は腹立たしい。

自分自身を抽象化して悦に浸っている人間が私は腹立たしい。


そういった人間が私を見下そうとするということが最も腹立たしい。


「思考もせずに生きてきた家畜にしか思えないよな」

「家畜に罵られるのはたまったものじゃないよな」

「今日のお前は口が悪いな」

「お前もな」

「とりあえず、あれだ」

「なんだよ」

「ネタとガチの両方を受け取れない奴とは喋りたくないな」

「疲れるだけだもんな」

沈黙は甘えだ



「なあ、何で不機嫌そうにしてんの?」

「………」

「話してもらわなくちゃ分からないだろ」

「………」

「あー、オレは、お前が意味不明に不機嫌なのが腹立たしい」

「い、いや、だって(以下略」


もっと、ましな甘えかたしやがれ。

底辺というのは、ある意味で自由であるとも考えられる。



きっと、これからのオレも今まで通り、運命や他人に振り回されるだけの人生なのだろうけれども、生きていれば良いかと考えれば、大して苦しいことなんてないのではないかと思えてくる。

しかし、自分の努力ができない奴がどうやって他人と笑い合えるのかが、どうも不鮮明である。

私には具体的な物がなにもない。
私には背骨となる物がなにもない。


「努力するしかねえよな」

「何を?」

「何かやりたいことないのか?」

「うーん、お金が欲しい」

「なら働けよ」

はるか彼方



他人に感情を押しつけることが嫌いです。

他人に感情を見せることが嫌いです。

自分が感情的になることすら嫌いです。


だから、僕に恋愛をする資格なんてないんですよ。

理性で全てが完結すれば良いのにと心から願う。


今の自分が気持ち悪くて仕方がない。

たまたま隣にいた人


「あした遊びに行こうぜ!」

「ずいぶん急だな」

「イマ思いついたからね!」

「何するんだ?」

「お前が決めてよ」


あなたの相手をする為だけにオレは生きてる訳じゃないんだよ。

被害者のふりをする加害者



ステージが違う人間同士のコミュニケーションは平行線にしかならない。

それは、どちらかが相手のステージに立とうとしなければコミュニケーションが成立しないということである。

僕たちは、それを理解せずにコミュニケイトしようとする。

ただ、平行線になることを善しとしているかのようにコミュニケイトしている。

それは、ただ無闇に自分自身を傷つける行為に他ならないにも関わらずにである。

他人を攻撃していることに気づかずに、ただ繰り返す。


「既に完結してるよな」

「うん、続きを読みたいとさえ思えない」

過程における嘔吐


最近、どうも私の人間に対しての好き嫌いがはっきりしてきているようで、今後の自分が、自分にとって不都合な状況を作ってしまうのではないかと心配でならない。

けっして、状況において必要な相手には悟らせないようには接するのだが、相手を嫌いな人といったん認識してしまうと、コミュニケーション中に、目眩や吐き気、頭痛、眼球に痛みを感じるなどの症状がでてくるのである。

先日、こちらから事務的な用件があった為、久しぶりに親に連絡をしたところ、親のあまりの一方的なご都合主義に生理的嫌悪感を抱いてしまい、耐えきれず話の途中で電話を切り、トイレに駆けて便器に向かって私は嘔吐していた。


昔は、まだ、嫌いな相手に対して努力しようという感慨はあった。そして、その「過程」において、私は、自分の感情を相手にぶつけるという――リスクをある程度考慮した上でだが――アプローチをすることも多々あった。しかし、最近では、十二分に私のコミュニケーションに好感をもってくれる方たちが多くいる為、不必要、又は、縁の薄いと判断した相手に対して努力しようという意志を含んだコミュニケーションは断ってきた。

より生産性の高いものに時間を使う方が、自身にとっても、他者にとっても、有意義だと判断した為である。


その「過程」において、私は、きっと相手に対して諦めるという感情を抱かないように努めてきた。
しかし、現在の私は、その諦めるという感情に対してリミッターを一切付けていない。

そして、つけていないからこそ、相手に対しての嫌悪感をフィルター無しに感じているのだろうと把握するのである。


いったい、私は、いつになったら鈍感になることができるのだろうか。



「お前は他人を見下せる程に偉いのか?」

「見下しているつもりはないよ。ただ差別してるだけだ」

「その差別とやらをして何が楽しいんだ?」

「時間を上手く使えるんだよ」

「上手く使えてお前に何の得がある?」

「得なんてある訳がないじゃないか。上手くできることが楽しいだけだよ」

「相も変わらず自虐的だな」

「自虐は全てを許す為の過程だよ」

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